ユーチューバーに感じる嫌悪感について
こんなツイートを見つけた。
ツイートって言うか、記事ですね。
ハグして、「なんで僕を嫌いなのか」聞いたら、「分からない」という回答を得たらしく、「彼に必要なのは愛」なのだそうだ。
「これは妖怪の仕業ですね」
という声が聞こえた気がした。
関係ありそうなので書いてみる。
YouTubeを利用している人が多いと思う。
だけど、見ているのは大概、決まった人が配信する、決まったチャンネルに落ち着いてはいないだろうか。
新規を開拓する気があるのか、ということではない。
新規を開拓する際、なにを基準に選んでいるか。
何を基準に、チャンネル登録しているか、ということが少し気になった。
まずは嫌悪感が先に来る。
ユーチューバーにまず感じること。
それは嫌悪感である。
見知らぬ他人が、レポーターのようにカメラに向かって必死に喋っている。
時に変顔や、大げさなリアクションで、視聴者の注意を引こうとするその姿は、なかなか痛々しく、見るに耐えないものとして考えていた。
しかし繰り返し見ているうちに、その嫌悪感が不思議と薄れていく。
登録者数を稼ぐには、などと考えるつもりはない。
人は、ひょっとしたら、誰に対しても嫌悪感を抱いているのではないか?
見慣れた顔。
普段からあいさつを交わすだけの職場の同僚、先輩、後輩。
そこに嫌悪感はない。
その人がそこに実在して、手の届くところにいるからだ。
しかし画面の中の他人は違う。
彼らは神ではなく、ただの人。他人でしかない。
しかも、生きている間に会うこともないであろう、『どうでもいい他人』なのだ。
どうでもいい他人。
『自分の人生に直接的に関わってこないであろう他人』
と言い換えることも出来る。
初対面の人には、必ず警戒心を持って接する。
古代からのDNAがそうするのか、現代の不穏な空気感がそうさせるのかは知らないが、見慣れぬ顔、他人、特に『自分の人生に直接的に関わってこないであろう他人』には、嫌悪感を強く抱くのだ。
あるいはそれは、隣人や近隣の住民からの騒音、初対面の相手からの視線、取引先の人の厳しい顔、高速道路で無理に割り込んでくるドライバーなど、であるかもしれない。
つまり『自分にとって不利益となる発言や行動を行う可能性のある他人』なのかもしれない。
おや?
すこし問題の根っこが見えてきたかな?
上の記事の場合、『白人至上主義』という考えに囚われていたのかもしれない。し、
洗脳に近いところまで、思想が変化していたのかもしれない。し、
身近に黒人の人がいなかった、接する機会がなかったのかもしれない。
分からないけれど、嫌い。
分からないから嫌い。
まずは嫌い。
人と接するとき、嫌い、なところから始まっていくのかもしれない。
いつまでも、その『嫌い』な気持ちが払拭できずに残り続けると、本人の意識に浮上し、『嫌い』だと認識、思い込んでしまう。
初めてやったスキーが上手くいかず、最初の一回のみで練習を諦め、「私はスキーが嫌いです」と発言していることと何ら変わりない。
嫌いだ、というのは自然な感情で、嫌いで居続けることは、それは普通なのだろう。
ただ、嫌いであり続けるというのは本人のためにならないのかもしれない。し、
本人にとっては辛く、ただの時間の無駄になっている可能性だったある。し、
嫌いになられてしまったスキーの気持ちを考えると、私まで辛い。
汝、ユーチューバーを愛せよ
嫌いでもいいというのは分かった。
世界は嫌悪感で出来ている。
この世界の基本方針が、嫌悪感で成り立っているというのも、お分かりいただけただろうかと思う。
要は、見知らぬ隣人を愛せるか、ということだ。
世界平和への近道は、案外こういうところにあるのかもしれない。
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